記事一覧

「政策起業家」の本質

ルーゴフは歴史学を「時間の進展における人間社会についての科学的な研究」と定義した。これは、今の日本で歴史学が果たすべき役割を言い当てている。歴史学は経済学のような理論的な基盤に欠ける。それでも、現状分析さえ頼りなげな一部の社会科学に重みを与える歴史学の効用を否定できない。ブローデルの偉業は、多弁で美麗なうわべの概念に頼る学問よりも、歴史学が危機の時代に頼りがいがあることを示したともいえよう。ジョッーロー(1671~1729年)は、経済に関する著作はあるが、基本的には政策起業家とでも呼ぶべき財政家で、アカデミックな経済思想を展開したり、経済論争の当事者となったりした人物ではない。だがフランスのルイ15匪の治世下、莫大な債務残高に悩む国家に対し、それを軽減して、経済発展を促す政策を[経済システム]として売り込み、実行に移した人物として異彩を放っている。

1671年スコットランドに生まれたローは、若いころロンドンで女性をめぐって決闘を行い、相手を殺してしまった上に、脱獄して大陸ヨーロッパで逃亡生活を送り、その後、ブルボン王朝に取り立てられ、金融財政の総責任者として采配をふるった。だが結局、フランスにバブル経済をもたらし、最後はベネチアで58歳の時に客死する。多くの小説や戯曲の題材になるほど劇的な人生を送った人であった。とりわけ彼の名前か出てくるのは、彼の「経済システム」の運用を通し、株価バブルを起こし、それを暴落させた張本人としてである。多くの文献では希代の詐欺師あるいはトリックスターとして扱われてきた。

ローの名誉のために述べておくと、シュンペーターは社会的なイノベーションを行う起業家を評価し、その意味でジョンーローを高く買っている。実際、1980年代以後、ダブリン大トリニティ・カレッジのアントイン・マーフィー氏らの地道な文献収集の結果、ローの著作や経済政策の実態が明らかになり、ローが行ったこと、議論したことは、実現不可能な絵空事をまくし立てる詐欺師の仕事ではなく、プロの政策起業家の仕事であったという評価が定着してきた。学説史上の再検討を行うというより、ローが実際に政策起業家として行った「経済システム」の構築に関し、歴史的状況の中で概観する。すなわち、18世紀初頭のフランスの政治経済社会状況を踏まえた上で、なぜローがそこに登場し、また排斥され、その結果フランス社会に何か起きたのかを見ていくことで、現在日本の置かれた状況への教訓を得たい。

ジョン・ローが行き着く前のフランスは太陽王ルイ14世の治世で、絶対工制が最盛期に達し、ベルサイユ宮殿の建築やその他の顕示的消費、文化、芸術活動が活発に行われていた。また、ルイ14世はヨーロッパ諸国との間で戦争を収ね、スペイン王位継承戦争での敗北まで、累計で30億リーブル(フランス国民総生産の1・5~2倍)という債務を抱えていた。この債務は、国王が国家収入の基礎となる徴税権を担保に借り入れを行ったものである。課税対象となる塩、たばこ、アルコール類などにかかる諦税の徴収は徴税請負人が担当した。

この徴税請負人は大貴族や金融家であり、税収から徴税手数料を得ていた。当時のフランスの国家財政は、歳入はそれぞれの徴税請負人が集め、歳出は宮廷が勝手に決める制度になっており、歳入と歳出の差額は徴税請負人や金融家からの借り入れで賄っていた。この時期の金融・財政問題は、財政を管理し規律を働かせるような仕組みがなく、また金融家が保有する資金は国家債務を賄うために使われ、その他の産業や貿易など国家の成長を高めるような分野にほとんど配分されていなかったという点にある。その結果、農業生産と人口の減少に見舞われ、デフレが続いていた。

BISの思い出

BIS(国際決済銀行、Bank for International Settlements)のことを私がはじめて知ったのは、一九五七年一一月一四日、日銀の元理事田中鉄三郎氏からであった。この日、日米協会からの依頼で米軍将校二名を田中邸の夕食に招くに当たり、世銀研修から帰国したての岡昭氏と、米国留学から帰国したての私の二名が同席を命ぜられた。席上、田中氏は、二九年からロンドン代理店監督役としてロンドンに在勤中、ドイツの第一次大戦の賠償金をドイツに再投資するために設立される国際決済銀行の創立委員となったこと、その所在地について意見が分れたとき、スイスとすることを提案したこと、一九三〇年、同行が創立されたとき、その初代の理事の一人となったことなどを語った。敗戦の影響からまだ抜け切っていなかった私は、第一次大戦後一度は国際的地位の高かった日銀の過去の栄光に耳をそばだてた。

田中氏が理事であった当時のBIS調査局長はヤコブソン氏で、戦後IMFの専務理事となった。五八年春、同氏が訪日した際、田中氏は自分が会長となっている日本外交協会で同氏に講演をしてもらうことになり、私はその通訳をつとめるよう依頼された。ところが、あいにく下手なスキーで軽い骨折をしたため、私はその任を果たせなかったが、同氏の英語は、強いスウェムアソなまりで頗る難解であったそうで、私は幸い語学力の馬脚をあらわすことを免れた。七〇年、BISが創立四十周年を迎えたとき、創立時の理事のうち唯一人の生存者であった田中氏にも、六月の年次総会への招待状が送られた。

もう健康を害していた田中氏は出席を断念したが、その後しばらくして訪日したBISのダロマ文書局長が電話ででもぜひお話ししたいというので、私か田中邸に電話した。夫人によると、氏は風邪で休んでいるということであったが、ひとたび電話に出ると、ダロマ氏を相手に洽々と話し続けた。BISの思い出が尽きなかったに違いない。これより先、六二年六月から二年間、私はロンドンに勤務したが、当時、若手駐在員は次々と諸国の中央銀行へ二週間の研修に出かける慣例となっていた。私の場合は、幸いにもBISへ出張する順番に当たっており、六四年三月、バーゼルの同行に二週間厄介になった。研修のはじまる直前の週末、当時は土曜日の午後から始まった月例会に、前川理事と星野ロンドン駐在参事が出席し、私もこれに随行した。

時あたかもわが国の国際収支が悪化し、日銀がニューヨーク連銀との間で締結済のスワップを五〇〇〇万ドル引き出す(実質的には等額の円を担保に米ドル資金を借り入れる)という事態が生じており、BISからも日銀に資金援助をしてもよいという話が出てきた。このBISからの借入は、結局のところ実現にいたらなかったが、前川理事が自ら本店外国局あてにその内容と問題点を記した電文を起案し、これを私かローマ字に直して、普通電報として発信するようホテルーオイラーに依頼した。電報代が多額で私には払い切れないほどであったが、ホテルのボーイ長が数日間立て替えてくれた。このときの恩義もあって、それ以来私は、パーセルではオイラー以外のホテルに泊まったことがない。

組織の判断に任せる

こうして「秦議書」が担当者の間をグルグルと回っているので、最終的な決定に至るまでには時開かかかる。しかし、いざ決定してしまえば、すぐに実行される。それまで「秦議書」が担当者の間を回っており、それについて何回も会議で討議しているので、内容についてみんな知っているから実行に移すのは早い。これに対し、アメリカの会社では、トップが決めてそれを下に降ろす。だから決定するのは早いが、いざ決定してからそれを実行するまでのあいだに時間がかかる。上から命令されて、その件について知るまで予備知識が全くないからである。ここから日本の会社の意思決定方式は集団主義であり、アメリカやヨーロ乙ハの会社は個人主義であるといわれるが、日本の会社のこのような意思決定方式は、とかく好景気のときには暴走し、逆に不況になると、とたんに消極主義になるという傾向がある。

それと同時に、集団主義のもとでは、自分で判断する必要がなく、たえず他人の動きを見て行動するということになる。その結果、「判断停止」-「判断しない」ことが日本の会社のムードになっていく。集団主義のもとでの競争は集団間での競争になり、「ライバルの会社に負けるな」ということが最大の目標になる。業界で一位になるか、二位になるか、というようなことが最も大事なことになり、業界でのランク、そして会社の大きさを競う。ロドニー・クラークは文化人類学が専門なのだが、その研究の対象として日本の会社人間 肘(カンパニーマン)を選んだ。クラークはその研究のために日本にやってきて、日本の会社に就職してつぶさに観察し、その成果を『ザージャパニーズ・カンパニー』(端信行訳、ダイヤモンド社)という本にした。

その中で彼は日本の会社の特徴として、会社が社会の基本単位になっている。会社の専業度が高い、会社間に階層的な格差がある、企業集団が形成されているという四つの点をあげている。会社間の階層的な格差というのは、業界内で一位か二位か、あるいはその会社が一流会社か二流会社か、ということが厳然として決まっていて、会社人間はもちろん、社会もすべてこういう目で会社を見るということである。そして一流会社に働いている人間は偉く、二流会社の人間は劣っていると考える。良い会社か悪い会社かを判断する基準はいろいろある。その会社の利益率が高いかどうか、従業員にやさしい会社かどうか、あるいは地域や社会に貢献しているかどうか、など多様な基準かおるはずだが、そのなかで会社の規模と業界における順位だけで会社を判断する。

このような日本人の会社観は自分では判断の基準を持たないということであり、これが日本人の判断力を失わせることになる。会社のなかで経営者や従業員がどういう判断をしているか、ということを知ることはむずかしい。会社人間といってもさまざまなタイプの人がいるし、また会社によってそれぞれ異なっている。ただ、平常の場合には経営者や従業員がどのような判断をしているか、ということを外から知ることはむずかしいが、会社が危機に直面するとそれがはっきりとあらわれる。前に引用した石井茂氏の『決断なき経営』はその点て良い教科書である。破綻の危機に直面したとき、経営者、そして従業員がどういう判断をしたか。ひとことでいえばそれは「判断停止」であった。

なにも判断しなかったのである。その結果、山一証券はつぶれてしまったのだが、この「判断停止」になった理由は「自らの判断を決める基準がなかったからだ」と石井氏は言う。ではなぜ、自分としての判断力を持てなかったのか。私は、従業員の多くが判断をする責任を自覚していなかったからではないかと思う。その結果、図式的に言えば、上席者は部下に具体的な判断のついた提案を求め、部下は上席者に決断を求めることとなり、極端な場合には、物事がうまくいかないことを自分以外のせいにするという態度を生むことになる。

四・五億人を超えた網民

大陸内のパソコンから検索結果に表示されたリンク先に飛ぼうとしても、防火長城によって遮断されてしまうが、これまでのグーグル中国、そして圧倒的シェアを誇る百度の検索結果と比較すれば、その違いは検索する者を圧倒するに十分であった。百度で「六四事件」を検索すると、「関係する法律法規と政策により、検索結果の一部は表示できません」(「根据相矢法律法規和政策、部分捜索結果未予昆示」)という文言とともに、検索結果はわずかに九一件。たしかに「天安門事件」のことが書いてあるが、あくまでも「六四事件後、アメリカやフランスなどが中国に対してどういう視点を持つたか」ということや「六四事件があった時に、ちょうどソ連の崩壊もあったりして」といった、世界情勢の変動の一コマとして、この「六四事件」という言葉だけが使われているのであって、内容の説明は一切ない。もちろん学校教育でも中国の歴史に関し、このことを抹殺しているから、80后の青少年たちは「六四事件」そのものの存在さえほとんど知らないままで、あの大陸の上で生きているのである。

一方で、google.com.hkにおけるヒット数は「六四天安門二二万件」「六四照片(写真一一〇万件)「六四事件一一六二万件」「六四事件真相一四六万五〇〇〇件」「六四鎮圧事件一一七八万件」などである。中国国内で三〇%を超えるシェアを持っていた検索サイトが、多くのユーザーを抱えたまま香港に拠点を移したのである。六四事件を直接知る中国大陸の人々が受けたであろう衝撃の大きさ、そしてなにより中国政府が抱いた危機感は想像するに難くない。中国政府は同年六月、この自動転送が行われる限り、ICPライセンスの更新は認めないとグーグルに突きつけた。グーグルはそれを受け入れ、google.cnからの自動転送をやめた上でのリンクを新たに設置することで、翌七月、両者は妥協するにいだったのである。グーグル撤退騒動が投げかけた波紋は、中国の何を照らし出し、世界の何を語っているのだろうか。

圧倒的なネット人口を誇る中国のネット言論の力とその攻防を、分析している。中国政府が管轄する「中国インターネット情報センター」(CNNIC)が二〇一一年一月に発表した「第二七次中国インターネット発展状況統計報告」によると、二〇一〇年コー月までの時点で、中国のネット人口、すなわち「網民」(ネット市民)は四億五七〇〇万人に達した。全人口一三億人強の三四・三%にのぼり、二〇〇九年末から七三三〇万人も増えている。網民の分布は都市に傾いてはいるものの、農村でも一億二五〇〇万人に達しており、決して無視できない数値となっている。また携帯電話からインターネットにアクセスする「携帯網民」の数は三億三〇〇万人で、全網民の六六・二%を占めている。インターネットの使用目的は複数回答で「検索」が八九%、「音楽」が七九・二%、「新聞」ニュース)が七七・二%と、上位三位を占めている。自らの主張を発表する主な手段には、BBS/掲示板(論壇)、ブログ(博客)、思想性を持った特定サイト、ニユースーレスポンス薪聞服帖、大手ポータルサイトのニューストピックスに設けられた「服帖」という書き込み欄)、ミニブログ(微博客)などがある。

また、オンラインで同時に交信できるインスタントーメッセンジャー(IM)を使用している網民は三億五三〇〇万人に達している。ブログ利用者の数は二億九五〇〇万人(全網民の六四・四%)で、ソーシャルーネットワークーサービス(SNS)を使用する網民の数は二億三五〇〇万人(全網民の五「四%」に達している。これらの数値は、網民たちの意見表明に対する欲求がいかに大きいかを窺わせるが、中でもソーシャルーネットワークーサービスは今後のさらなる成長が注目されるネット空間である。というのも多機能であるだけでなく、「網民仲間が気軽に集まって特定のテーマに関して意見交換する場」として機能しており、すでに巨大な人数が存在しているからだ。

もし、その特定のテーマに集まった網民たちが「網上」(バーチャル空間)から「網下」(リアル空間)に飛び出したら、どうなるだろう。反日デモでさえ、最終的には必ずその矛先を政府に向けてくることは、二〇一〇年一〇月に起きた一連のデモが如実に証明している。もう一つ注目すべきなのは、携帯電話のショートメッセージ(短信)であり、携帯網民による情報伝達力は軽視できないものとなっている。特に「群発」という「一斉発信機能」を兼ね備えているので、デモやストのような「団体行動」を呼び掛ける時に効力を発揮する。二〇一〇年五月から六月にかけて、ホンダ系の自動車部品工場などで散発したストは、主としてこの携帯電話という手段が武器となって全国に広がっていったと考えていい。

遺伝上の母か、出産の母か

提供された精子によって生まれた子については、子どもとして育てる意志と養育の事実とを血統に優先させ、遺伝上の親を親子関係から切り離したのである。このような解決は、精子・卵などの提供する側と提供される側との意志にも合致したものであろう。さらに提供者を確保するためには、不可欠な原則でもある。日本では、日本産科婦人科学会の「『体外受精・胚移植』に関する見解」が、体外受精が実施できる対象を、婚姻した夫婦に限定している。そのため体外受精では精子・卵・受精卵の提供を認めていないと理解されている。そこで現段階で問題になるのは、AIDについてだけということになる。民法は、子どもを出産した母の夫を父と推定している。しかしAIDから出生した子どもについて、この推定が及ぶか否かについて学説上争いがあり、子どもの地位は安定していない。すでに述べたように、これまで父であることを争った深刻なケースぱないといわれているが、それだからといって放置しておいていいものではない。

日本でもAIDによって生まれた子どもの地位を安定させるために、子どもの地位について立法的な解決をはかることが、子どもの保護という観点からみて重要なのである。それでは母子という関係についてはどうなのだろうか。かつて子どもの母は出産という事実によって確定していた。そして体外受精が行なわれるようになるまでは、出産の母はとりもなおさず遺伝上の母であり、たった一人の生物学的な母であった。ところが体外受精は生物学的な母を二つに分割し、遺伝上の母と出産の母とが異なる子どもを誕生させた。そして遺伝上の母と出産の母とが異なるとき、どちらを法律的に母と認定するかという困難な問題を提起したのである。子どもと母との関係において、遺伝を重視するのか、妊娠・出産という九か月間にわたる労苦と貢献を重視するのかということである。

ところで男性と女性とは、子どもの出生に対して異なったかたちで関乍する。男性は精子を提供して、子どもとの間に遺伝子を共有する関係乍つくりあげる。子どもが出生するまでの男性の貢献はそれだけである。女性は、卵を提供することによって子どもと遺伝子を共有するだけではない。さらに妊娠して子どもを体内で育てて出産するという貢献をする。そして女性の視点から見るならば、遺伝子の提供も、妊娠・出産もともに重要な貢献なのである。遺伝子の提供が一瞬の間に完了する貢献なのに、妊娠・出産は、長期間にわたる子どもとの極めて親密な関係であり、時には苦しいそして時には喜びに満ち九関係であるとともに、妊娠にともなうさまざまなリスクを引き受げる。

このように男性と女性とでは、子どもの出生へのかかおり方が違うのだから、何が重要かということについての評価が異なるのは当然であろう。男性は精子を提供するという形でしか子どもの誕生にかかわれないのだから、男性の視点からは遺伝的な関係こそがもっとも重要な貢献のように見えるかもしれない。この意味で遺伝を重要視するのは男性の視点からの発想である。女性の視点からみれば、遺伝子の提供も、妊娠・出産もともに重要な貢献なのである。さらにこれまでのように母子関係の確定を、出産という事実に基づくようにしておくことには、つぎのような合理的な理由かおる。生まれた子どもの保護のためには、母は出産の母とすることが望ましい。遺伝上の母は、子どもの出産のときに生存しているとは限らないし、生存していても不在であるかもしれない。出産の母は生まれた子どもの傍らに存在している可能性が高い。

出産の母と子どもとの間の絆は、妊娠・出産の全期間にわたって形成され、子どもが出生する以前からすでに存在しているから、子どもの養育という観点からも出産の母を母とすることが自然でありかつ望ましい。生殖技術は進歩してきたが、いまだに子どもは母の体内でのみ生育することができる。また前述のように障害をもった子どもの出生を防いでいるのも母体の生理なのである。人工子宮ははるか未来の物語であり、現状では出産の母こそが子どもの出生に対してかけがえのない貢献をしている。男性の視点からはしばしば見過ごされてきた妊娠・出産という貢献が、実態に即して評価される必要があろう。つぎに遺伝上の母と妊娠・出産の母という二人の生物学的な母が存在することになる卵・受精卵の提供と代理母をめぐる問題で、出産の母を法的にも母と認定することの妥当性を検証しておこう。

自分のルーツを知る権利

精子・卵・受精卵が提供されて生まれてきた子どもは、自らの遺伝的親を知ることができるのだろうか。私がメルボルンに滞在していた時、子どものルーツを知る権利をめぐって集会が開かれた。その頃メルボルンでは、「不妊医療手続法」の改正問題が大きな話題になっていた。提供された精子・卵・受精卵などから生まれた子どもに、提供者つまり遺伝的親が誰なのかを知る権利を認めるかどうかも論争点の一つだった。集会は、養子にそのルーツを知らせるべきだと主張してそれを実現してきたグループなどが中心となって開いたものだった。アメリカからやってきたビル・コードレイ氏はつぎのように語った。

「五歳のときから、自分は養子なのではないかと疑うようになった。父は教育のない鉄道労働者で、私の音楽、文学、絵画などでのなみはずれた才能は、両親から快く思われなかった。ある日、勇気をだして母に聞いてみた。『僕は養子なの?』母は、『いいえ、あなたは私の子どもよ』と答えた。『なんで、私たちのではないのだろう』と疑問に思った。父との共通点は青い目だけだった。私は、母の不倫の子なのかも知れないと思った。私が三七歳になり、父が死んでから、母は私が医学生から精子の提供をうけてAIDによって生まれたことを教えてくれた。私は、苦労して育ててくれた父を愛している。でも秘密は私たちの関係から、信頼という大切なものを奪ってしまった。やっと真実の父を探したけれど遅かった。その時父は、交通事故で頭に大怪我をしていて意志の疎通をはかることさえできなかった。秘密は子どもにとってなんと残酷か。」

社会的に男性の不妊は不名誉なことであり、AID児であることはほとんどの場合秘密にされている。にもかかわらずAID児の多くは、父に似ていないことから自らのオリジンに疑問を抱く。AID児に関する外国の調査によれば、自分は母の姦通の結果生まれたのではないかと考えているケースが三〇パーセントにのぼるという。つい最近までは匿名性の原則、すなわち精子・卵・受精卵の提供者は匿名でなければならないということに関しては広い合意が成り立っていた。したがって提供された精子・卵・受精卵を使用して生まれた子どもには、提供者に関する情報とくに誰であるかを特定できるような情報は一切公開しないということだった。ウォーノック報告も、つぎのような理由をあげて提供者の匿名性が保障されるべきだとしている。

生まれた子どもから養育の責任を問われないように提供者を保護する。家族関係への第三者の介入をできるだけ抑える。提供者の確保のためには匿名性を保障することが必要である。このような流れを変化させたのは、一九八四年にスウェーデンで制定された「人工授精法」である。この法律は世界ではじめてAID児に対して、遺伝上の父すなわち精子の提供者が誰であるかを知る権利を認めた。人間にはそもそも自分のルーツを知る権利があるという考え方に基づくものである。AID児であることを明かすと親と子との一体感が損なわれる、匿名性が保障されなければ精子の提供者がいなくなって、人工授精ができなくなるなどとの反論があった。

しかしAID児の基本権ともいえる自己のルーツを知る権利を、そのような便宜的な理由によって奪うことはできないということになり、この権利を認めることになった。この法律が施行されると、スウェーデンでAIDを実施していた一〇のうち九の施設がその実施を中止したという。しかし現在では新しい規定に賛成する精子の提供者によって、AIDは支障なく実施されている。養親子関係については、真実は真実として正直に話すことが、良い親子関係の確立にとって不可欠であると考えられるようになり、それまでは禁止していた養子縁組の裁判記録の公開が、子どもが成人に達した段階で、カウンセリングを要件として認められるようになった。体外受精で提供された精子・卵・受精卵から出生した子どもについても同様に考えていくべきであろう。

高い即応能力

横浜には、横浜冷蔵倉庫、神奈川ミルク・プラントなどに加えて、横浜ノースドックがまだ米軍の管轄ドにある。ノースドックは占有面積五トー万九千平方メートルだが、横浜港の大桟橋の目の前に米軍直轄施設が存在するのは、まさに米国が日本をアジア・太平洋地域の前進補給基地としていかに重視しているのかを端的に示すものであ・る。その瑞穂埠頭の長さは大桟橋を遥かに凌ぐ一千メートルもあり、合計七万七千八頁平方メートルの床面積を持つ五つの倉庫施設が設けられている。このノースドックからの引込線はJR横浜線と接続し、その横浜線は相模補給廠の前を通っている。そのすぐ横には国道16号線が走り、横浜や、在日米軍司令部でありアジア・太平洋地域における米空軍輸送ルートの要である横田基地と結ばれている。

相模補給廠は二百十四万六千七百平方メートルの敷地があり、三十一万四千三百平方メートルの建物には、百万品目以上の物資の貯蔵・搬出機能と、車両・兵器の修理施設がある。ベトナム戦争中は、ベトナムで破損した車両の修理が行われ、敷地一杯に修理を待つ戦車や装甲車が並んでいた。ベトナム戦争後は修理・備蓄機能は大幅に縮小され、名称が在日米陸軍本州司令部相模工務局と変更された。以後、段階的に三千八百平方メートルの敷地が日本に返還されたものの、なお前記の敷地面積と主要な補給物資貯蔵・修理機能ぱ残されたままになっているし、一九九七年中期現在、具体的な返還計画は米側からは提示されていない。それどころか、一九九五年二月から四月にかけて「内陸石油配分システム」と呼ばれる送油キットが搬入された。

太平洋方面における戦時備蓄(AWR4)増強計画の一環で、「主要な地域紛争の時、派遣される部隊を統合し、受け入れ、前方進出を支援する」第九戦域陸軍コマンドの能力を強化することを目的としている。一九九七年九月八日からは、第二陣の「内陸石油配分システム」搬入が開始された。これが何を意味するかというと、米国はアジア・太平洋地域(あるいはインド洋、中東方面も含まれる場食があろう)の非常時において、このノースドック、相模補給廠、横田基地の枢軸補給ルートを活用しようと考えているからに他ならない。このように、大きな敷地と施設、輸送を完備した施設を、他のアジア・太平洋地域に見出すのは困難である。

一九九七年一月からは、グアム島にあった米海軍補給センターが閉鎖されてその機能がノースドックに移管され、インド洋のディエゴ・ガルシアに補給物資を届けていた船(民間の契約船)が、往復するようになった。米国の国防費削減策の一環であり、これによって年間二百八十万ドルが節約できるという。ベトナム戦争中を除けば、ノースドックや相模補給廠の米国世界戦略にとっての価値は、冷戦後むしろずっと高まったと言うことができよう。米軍が東南アジア諸国と行う合同演習に使われる物資は、日本の相模原、佐世保、沖縄などから積み出される場食が多いし、米本土から持ってくる物資も、日本のこれらの港や施設で積み替えて送り出されるものが少なくない。米軍はアジア・太平洋地域で、同盟国、友好国と年七十回以上の合同演習を実施している。

経済的思恵にあずかれないチベット族

重要なのは、「中国の伝統文化の中にある華夷思想はすでに民族の骨の髄までしみこんでいて、その毒はまだ消し去られていない」と指摘していることだ。愛国主義は骨髄にしみこんだ華夷思想と結びついたとき、第二の義和団事件を生む危険をはらんでいる。二〇〇五年、各地で起きた反日デモで、参加者が「愛国無罪」と叫びながら日本の公館を襲撃したのも似た精神構造を持つ。徳による感化に取って代わるもう一つの民族政策が。経済優遇政策による生活の改善をアピールし、少数民族統治を正当化する宣伝工作である。チベット問題では、寺院を中心とした貴族による収奪からの解放がこれに加わる。過去十五年以上、自治区の経済は二桁成長を記録し続け、青海省からラサヘと、自治区に初めて延伸した青蔵鉄道も二〇〇六年七月に開通。二〇〇二年に百六十七億元だった域内総生産(GRP)は一〇年に五百七億元へと約三倍に増えた。

数字を見る限り、「史上最良の発展、安定期」(ライディ自治区発展諮問委員会名誉主任)と自賛するのもあながち誇張ではない。ラサは観光バスが行き交い、バーがにぎわい、大型デパートまで営業している。一九六五年の自治区成立以来、中央政府は区財政支出の九割以上を補助し続けてきた。自治区四十周年の二〇〇五年には、歴代ダライ・ラマが住んだポタラ宮、離宮のノルブリンカ、チベット仏教寺院サキヤ寺の計三ヵ所に対する五年がかりの補修工事を完了させた。総工費三億三千万元にのぼる大規模な事業だった。世界遺産でもあるポタラ宮には、基礎の補強や屋根の浸水防止、壁画の修復などのために半分以上の一億八千万元が投入された。政府の援助に頼ることなしには、民族の文化遺産を維持していくことは困難だ。

四川省甘孜チベット族自治州濾定県の七十代の漢族女性は、「政府がチベットを解放し、たくさん食べ物を与えたのに、おなかがふくれたから今度はデモを起こすというんじや、筋が通らない」と不満を吐いたが、それは華夷思想を潜在的に持つ漢族社会の平均的な感情を表している。文化大革命期、チベット族居住区にも階級闘争が持ち込まれ、遊牧を主とする農業は人民公社として集団化され、特権階級が打倒され、宗教施設が破壊された。それは階級闘争という漢族の価値体系を持ち込み、チベットの漢族化を急速に推し進める契機にもなった。それ以前の一九六〇年代、階級教育め手法として、「憶苦思甜(がっての苦しみを思い、今の幸せをかみしめる)」という運動が行われた。年配者が旧日本軍の残虐や国民党の搾取を語る「憶苦会」が学校や職場で開かれ、共産党への忠誠心を育てることが目的だった。チベットの旧農奴社会を糾弾し、経済発展の成果を礼賛するチベットの宣伝工作は、この階級教育の手法を踏襲したものにほかならない。

だが、支配される側のチベット族からすれば、上からの恩恵は全く違った姿に映る。中国の人口約十三億人のうちチベット人は約五百四十二万人。自治区では人口約二百八十万人のうち九割以上がチベット人だが、ラサでは漢族の割合が急増している。亡命政府は、漢族の大量移民政策がチベット人の自治を有名無実化していると批判を強めている。潤う旅行業界では、大手の旅行会社、ホテル、土産店などの大半が漢族資本に握られ、チベット人は露天商などの中小、零細に集中している。資本や人的ネットワークを独占する漢族や商才にたけたイスラム教徒の回族に、富が飲み込まれていくのは必然である。遊牧の民が、市場経済社会に適応していくのは至難である。政治ばかりでなく、地元の経済を握るのもチベット族ではない。だが、観光資源はことごとくチベット民族が守り育ててきた文
化である。

チベット自治区人民代表大会では二〇〇九年一月、自治区成立五十周年を記念し、中国政府が統治権を確立した三月二十八日を「百万農奴解放記念日」と定めた。五%の支配者層がその他の農奴を搾取、抑圧していた旧チベット社会の民主化を図り、人権、文化、思想面でチベット族を解放した成果を記念するという。二〇一一年七月には、人民解放軍がチベットを占領した「解放六十周年」を記念する式典がラサで行われ、出席した習近平国家副主席は「愛国統一戦線を強固にし、ダライ・ラマ一派による祖国分裂活動に対する闘争を展開しなければならない」と強調し、軍を「チベット社会の安定を守る強固な礎」とした。この演説からうかがえるように、胡錦濤時代を引き継ぐ習近平体制になっても、チベット政策に大きな変化は期待できそうもない。

原生生物の危機が顕著になる

当時の人々の間には、自然破壊という観念はなかった。植民地政策の真っ只中で、より暮らしやすい土地を作ろうとして開拓した結果、もとの生態系を大きく変えてしまったのである。そして自分たちに馴染みの深い動植物を持ち込み、私がウェリントンで感じたような、外来種による「大きな植物園」を創りだしたのだ。ニュージーランドの人類史は、現在の「自然保護大国」とは大きくかけ離れた「自然破壊大国」からスタートしたのである。こういう状況の中で、カカポが40羽にまで追い込まれてしまったのは無理もないことだった。最初にやってきたマオリ人にとって太った鳥は十分な食べ物になったし、その美しい羽はマオリの首長のケープを飾った。

ヨーロッパ人もカカポを食べたし、連れてきた犬はさらに破壊的で、狩猟本能に駆り立てられて大量に鳥たちを殺した。すみかの森は焼き払われ、最後の砦であった森の奥にはネコやオコジョが入り込んでいった。今の時点で、カカポが生存しているのはとても幸運だと言える。ニュージーランドの島々で進化してきたユニークな陸鳥たちの中で、42パーセントにあたる57種は、人間が上陸してから現在までの間にすでに絶滅してしまっているのである。このような自然破壊大国から自然保護大国へ、ニュージーランドはいつ、どのように舵を切っていったのであろうか。その道程は、決して単純なものではなかった。

ニュージーランドで動物の保護が法律としてはじめて制定されたのは、1861年のことだ。「全ての種類のシカ、ノウサギ、ハクチョウ、ウズラ、チドリ、ミヤマガラス、ホシムクドリ、ツグミ、クロウタドリをこれから10年間狩猟してはならない」というもので、これは皮肉なことに、移入した動物を守るものだった。当時は「順化協会」(Acclimatisation Society)と言われる団体が欧米およびその植民地で活発に動いており、農業および植民地運営の利益になるように、外来生物を積極的に移入し、その土地に慣れさせることに専心していた。続いて翌年には同じく移入したサケ、マスの保護が法で定められている。では原生動物の保護はというと、1864年に野生鳥類保護法が誕生しており、ほぼ同時斯に始まっているとは言える。

しかし、これもどちらかというと狩猟のための資源保全を目的としており、「4月、5月、6月、7月以外に植民地内の野生のカモ、クロアカツクシガモ、ハトを狩ったり、捕獲したり、殺してはならない」という内容だった。1875年にはオットセイの狩猟期を制限しているが、これは既にオットセイの数が激減していたことを示している。こうして行われた順化自体も、失敗が繰り返されていた。1876年には大量に増えすぎたウサギを、1882年には同じく大量に増えて畑を荒らしていた移入鳥類を、1901年には雑草を管理する法律ができる。だがその手法が問題だった。順化協会はウサギなどを管理しようと、フェレットやオコジョ、ケナガイタチを移入し、さらに原生動物に打撃を与えることとなる。

原生生物の危機が顕著になり、ようやく本来の意味での保護の動きが出てきたのは、1890年代に入ってからだった。恐竜時代から3億年も変わらぬ姿の「生きる化石」ムカシトカゲや、オスメスでクチバシの形が異なる珍しい鳥フイアなどの固有種がまずその対象となり、20世紀に入ると少しずつ対象となる生物の種類が増えてきた。しかし、こうした対策も、種類によってはすでに遅すぎた。ニュージーフンドの周辺にあるステファン島固有のミソサザイが絶滅したのは1894年、フイアが人間に最後に確認されたのは1907年、その後も固有種の絶滅は続いたのである。この頃の保護の目的は、(1)農業等の邪魔になる動物を管理すること、(2)狩猟のための動物を保護管理すること、(3)絶滅しそうな原生動植物がいたら保全すること、とあくまでも人間の利益が中心であった。

豪壮雄大なゲート

舟運交通にとっては、このように橋下のクリアランスは高い方が好ましいが、あまりクリアランスをとると、今度は、橋へのアプローチ道路の勾配がきっくなってしまう。道路交通では、橋面と道路面との高低差はないにこしたことはない。ところが、同じスパン(支間)でくらべてみると、桁橋は下路式の橋より桁の高さが高くなり、路面との間に高低差を生じる。河川の第一橋梁を下路式にしたこと、それは、道路交通と舟運交通との障害にならないという機能面から要請されたことでもあった。単なる見た目のデザインではなく、安全性と機能性をそなえ、しかも舟運交通の目印になるというサイン的な意味も考えられて、橋のデザインとタイプが決められていたのである。今はなくなってしまったが、仙台堀川の上之橋や桜川の稲荷橋も、下路式のアーチ橋であった。

現在、永代橋の下流には佃大橋と勝関橋があり、さらに新川と佃島との間にはあたらしい橋が工事中である。しかし震災復興事業が完成した昭和初期には、永代橋の下流に橋はひとつもなく、永代橋が隅田川の第一橋梁であった。隅田川は、帝都を代表する河川であり、永代橋はそれにふさわしく「帝都の門」として設計された。永代橋から下流をながめると、今でこそ大川端リバーシティ21の高層ビルや住友ツウィンビルなどが建ちならんでいるが、戦前は佃島から遠くの方までずっと見渡せる視界の開けた場所だった。「永代橋河口の眺望を第一とする」(『日和下駄』)と、永井荷風も折り紙をつけた。このような「雄大なる環境に調和することは、区々たる局部的装飾の能くする処にあらず、橋梁其のものが全体として表現する気分によってのみ果さる」(『永代橋設計計算書稿』復興局)として、今日あるような豪壮雄大なる輪郭の形式を選んだという。

隅田川の第二橋梁である清洲橋のデザインは、第一橋梁の永代橋とともに、そのデザインはなかなか決まらなかった。最終的に決まったのが、優美なド垂曲線を描く現在のデザインである。隅田川人橋や首都高速道路橋は戦後の架設)。架橋地点は、「対岸の深川筋と浅野セメント会社又は多く倉庫が櫛比し至って静寂の地」である。「清洲橋には、川囲の風光に調和し、又永代橋の撰橋には反対なる優味を有する吊橋を配するは、最も当を得たるものであろう」(『清洲橋設計計算柚復興川)。筋骨隆々とした川心性芙を想わせる永代橋に対して、清洲橋は、架橋当時から女性的な橋といわれていた。

橋のデザインは、当時世界の笑橋といわれたケルンの吊橋をモデルにつくられた。当時の設計者は、このように対比的なデザインの橋を配置して帝都の人目を演出したのである。ところで、対比的な効果を狙って橋を配置するのであれば、永代橋と清洲橋の橋のタイプを逆にしたらどうなのだろうか。先の文献『永代橋設計計算書稿』には、そのことについてもふれている。日く、「吊橋の如きは、形態佳麗なるも、其の美は繊細にして幾分女性的の感あるが故に、本地点の如き雄大なる環境中にありては圧倒さる傾きあるべし」。当時の写真をみると、永代橋界隈には高い建物はなく、川幅も広く、護岸もずっと低い。盛り上がった鋼鉄のアーチは、隅田川にそびえる帝都の門として、はるか遠くからもながめられたにちがいない。

ページ移動