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網民の中のIT達人たち

二〇〇九年一月から始まったポルノ情報一斉取り締まりの時と同じように、ポルノ情報のフィルタリングの名の下に、さまざまな政治的な情報が検閲されるに違いないと確信したからだ。そこで網民たちは今度は「萌えグリーンダム娘」という架空のキャラクターを大量に描くことにより、政府の決定を側面から批判し抗議運動を展開した。こういったことをするのは、日本の漫画で育った80后あるいは90后の網民たちである。グリーンダム娘の描写には、「河蟹がそばにいて、和諧あるいは風紀という文字があり、小兎を二匹抱いている」という特徴がある。フィルタリングソフトの目的は「和諧社会」を作ることだから「河蟹」がいなければならないし、青少年の風紀を乱さないようにするためなのだから「風紀委員会」の要素を持っていなければならない。また「子兎」はフィルタリングソフト「グリーンダム」のキャラクターラペルを表している。着ている服は「緑色」が多い。

これらの萌えキャラクターは全世界で話題となり、英BBCニュース電子版でも取り上げられた。また、日本でも多くの若者たちが興味を示して「グリーンダムたん」などと呼んで共感し、ネット界では奇妙な「青少年日中友好」ムードすら漂った。抵抗したのは「萌えグリーンダム娘」ばかりではない。網民の中のIT達人たちが、リーンダムのシステムプログラムを解読してしまったのである。そこで明らかになったのは、青少年に悪い影響を与える「色情内容」のみをフィルタリングするとしていたソフトには、実は膨大な数に及ぶ政治的なキーワード(敏感詞)が詰まっていたことだった。この敏感詞が解読され公開されたことにより、政府がそれまで「政治的な検閲など行っていない。中国のインターネットは実に開放的で自由だ」と繰り返してきた宣言までもが、嘘だったということがばれてしまった。

そこで明らかにされたキーワードの中には、「法輪」「六四」などとともに、もっと具体的に「江氏集団」(江沢民一家の利益集団)という、知られない方がいい「事実」までが盛り込んであり、網民を驚かせたのである。それからは転送、転載と削除のいたちごっこがネット空間で始まり、ネット界は大混乱を来たし始めた。その後、中国国内のパソコン大手メーカーや経済界、あるいは欧米諸国からもグリーンダムに対して強い抗議の声が上がり、特にアメリカからは「国際的に認められている表現の自由と権利」を侵害するものとしてWTOへの提訴の可能性を示唆する議論さえも出てきた。この時点で、すでに網民によるグリーンダムの「破解」(解読)が成功しており、これでは「国家管理」には成りえないし「国家の面目」が立たない。

四面楚歌に置かれた工業・情報化部は、ついにグリーンダム強制搭載を放棄したのだった。攻撃と非難の矢は、もちろん中国の網民から放たれただけではない。外国からの圧力も無視はできないものの、政府は網民に負けたのだと解釈すべきだろう。その意味で、この事件は実に記念すべき歴史的事件だったと言うことができる。「80后」とは、一九八〇年から一九八九年までに生まれた人々のことである。「后」は日本語の「後」で、本来は一九八〇年以降に生まれた人という意味たった。しかし、80后という言葉が世に出てきてからというもの、あまりにこの言い方が広まり、一九九〇年以降に生まれた者にも「90后」という名称を付けるようになったので、80后は本来の「一九八〇年以降」という意味から、コ九八〇年代」のみを指すようになった。したがって90后は一九九〇年から九九年までに生まれた人を指すことになる。

こういう「××后」という呼び名が付き始めたのは80后が初めてである。改革開放は一九七八年二月から始まり、一人っ子政策もまた一九七八年から提唱され始めたが、両方とも大ざっぱに言えば概ね一九八〇年から始まったとみなすことができる。それ故、概念的に「八〇」を区切りとする。改革開放も一人っ子政策も、中国という国にとっては前代未聞の変化をもたらしたエポック・メーキングな大転換である。その社会変動の中で育った若者たちは、それ以前の人だちとは完全に異なるメンタリティを持つ「新人類」なのである。中華人民共和国誕生以来、「金儲け」は罪悪であり、資本主義がもたらす精神的な毒であり、マルクス・レーニン主義の根本思想を覆すものとして、常に批判の対象となってきた。それが改革開放によって「奨励される」事態となったのだ。

デー・トレーダーの登場

最大手の野村の場合、約五百万の顧客口座を抱えているといわれるが、このうち大口客は五、六十万に過ぎず、ほとんどは口座管理にかかる経費の方が大きい不採算層だ。野村が公表した新たな手数料体系では、顧客と直に接する対面取引の場合、原則最大二割引きにとどめているが、この機会にこれら不採算層を振り落とす狙いがありそうだ。しかし、厳しい競争環境にあるだけに、これでは他の証券会社に顧客を奪われるのは目に見えている。アメリカの場合も、大手のメリルリンチなどが手数料引き下げやネット参入に追い込まれているのが実情だ。オンライン取引の魅力は、売買手数料の安さにだけあるのではない。

大口資金を動かす機関投資家であろうと小口投資の家庭の主婦であろうと、誰もがその気にさえなれば投資に参加できるという「機会均等」の仕組みもまた優れた特性といえるだろう。アメリカにはオンライン証券取引を仲介する「デー・トレーディング会社」がある。そこには、数十台のパソコンが配置されており、毎日、Tシャツにジーンズ姿の若者から、ぴしっとしたスーツに身を固めたビジネスマン風の紳士など多種多様な人々が出入りする。そして思い思いにパソコンの前に座ると、サイバースペースとにらめっこしながら、マウスを動かしたり、キーボードを叩いたりしている。

インタ-ネットを使った株式のオンライン売買である。入場料もオフィス使用料も要らない。投資の元手となる資金は必要だが、一取引二十ドル程度というから、売買する株式一株当たり数セントの手数料を払いさえすればいい。彼らが「デー・トレーダー」である。一日で売買に決着をつけてしまうという意味では、文字通り「日計り商い」をしている。しかし、日本の証券界で昔から使われている「日計り商い」ということばには、特別な情報をもとにずる賢く立ち回る証券会社員の行動を指すと同時に、そうした行動を榔楡するような語感がある。一九九九年七月末、ジョージア州アトランタ市のデー・トレーディング会社で、顧客の男が銃を乱射、九人が死亡し、十二人が重軽傷を負うという事件がめった。

男はデー・トレーダーの一人で株取引に失敗して損失を被ったのが原因とされ、内外に衝撃を与えた。だが、ウォールストリートでは、デー・トレーダーが市場に厚みと流動性を加えているとして、その存在はそれなりに評価されている。流動性がなければ、投資家は市場に資本運用を任せることはできないし、企業は商品を生産し、サービスを提供するのに必要な資金を調達できなくなる。デー・トレーダーがその日その日に、分単位か秒単位で活発に株式を売買することによって、市場の基本である流動性を作り出しているのである。

企業スキャンダルの時代

加藤氏はこうして「分かり切ったことをわざわざむずかしく言う「擬態性難解症」という病気に経済学が罹ってしまっている」と言う。そういえば、私にも同じような経験かおる。ある大学で学生相手の講演に呼ばれた時のことだが、いま政府の委員などをしている有名な経済学者が私の後で講演したのでそれを聞いていたが、誰にでも分かり切ったことをわざわざむずかしい言葉を使って、「経済学ではこう言うのです」と説明していた。それを聞いていて、これは用語解説、いや分かり切ったことをわざわざむずかしく言いかえでいるだけではないかと思った。経済学者の講義や本ではこの種のものが多いから、そのための用語解説を学生は必要とし、やさしいことをむずかしく表現すれば試験に合格する。

日本の経済学が輸入理論であり、しかも英語やドイツ語の本が日本語に訳される際、むずかしい漢語を当てたために一般の人には何のことかよく分からない。英語やドイツ語の元の言葉は日常生活のなかで使われているものを経済学者が使っているのだが、それが日本語に訳されると、とたんにむずかしい言葉になる。分かり切ったことをむずかしい言葉に言いかえる「擬態性難解症」(この言葉もまた、わざわざむずかしい言葉に言いかえたものである)に取りつかれてしまう。「賃金が上がるから利潤が減っている」という当り前のことを「利潤圧縮メカニズム」などとわざわざむずかしく言いかえて分かったような気になる。これは判断をしないで、言葉を言いかえているだけである。「内容が空虚だから言葉がそれを埋める」という言葉があるが、経済学者はこの病気にかかっているのだ。それというのも学者に判断力が欠けているからこういう病気にかかるのである。

もうひとつ判断力のない学者のかかる病気がある。それは「現状追認病」とでもいうべき病気である。高度成長時代にはいつまでも高度成長が続くと思い、そのような理論を発表する。そして石油危機が来ると、今度は日本経済は沈没するというようなことを言う。バブル時代になると、株価はまだまだ上がると、アメリカのポートフォリオ理論を輸入して主張する。インターネットが普及しはじめると、IT革命がこれからずっと永続すると言う。そしてバブルが崩壊すると、今度は長期不況論を唱える。現状がたえず続くと思っているから判断する必要がない。あとはむずかしい言葉に言いかえるだけでよい。というよりも、判断力がないから現状がいつまでも続くと考えるしかないのである。輸入理論が判断を誤らせると先に述べたが、日本の経済学が輸入理論であるためにこういうことになっている。

逆に言えば、学者に判断力がないから、いつまでも輸入理論に頼っているのであり、それが学者を「擬態性難解症」にかがらせているのである。一九九〇年にバブル経済が崩壊してから銀行、証券、そして大企業をめぐる不祥事が続発した。大銀行の不正融資、証券会社による大口顧客への損失補填(いわゆる証券スキャンダル)、ゼネコン汚職、総会屋スキャンダルなどつぎつぎに不祥事が発覚し、国会に大銀行の頭取や証券会社の社長が呼び出されて、深く頭を下げて陳謝するという光景がテレビに映し出されたし、事件の責任をとって辞める頭取や社長が続出した。

九〇年代はまさに「企業スキャンダルの時代」だったといってもよいが、そのはしりとなったのがイトマン事件である。大阪の中堅商社イトマンが株式や土地、絵画、ゴルフ会員権などで不正な取引をして巨額の損失を発生させたというのがこの事件であったが、イトマンに社長を送り込んでいたのは住友銀行であり、事件の背後には住友銀行がかかわっていた。この事件では住友銀行常務からイトマンの社長になった河村良彦氏と伊藤寿永光イトマン常務、そして黒幕の許永中氏などが逮捕され、国会に巽外夫住友銀行頭取が呼び出されて陳謝するという一幕もあった。

銀行に対する信認が失われる

銀行が保有する貸出や有価証券は、しばしば固定(非流伺)的な性格のものであることが多く、その本来の価値通りに換金するには時間を貿する。すると、即座に換金しようとすると、「投げ売り価格」でしか処分できず、損失が出ることになる。それゆえ、預金者が一斉に預令の払い戻しを請求するような~態(こうした肛態は、通常「取り付け」と呼ばれる)が起こると、払い戻しに応じるための保有資産の処分に伴う損失で、元々は支払い能力に問題のない銀行であっても、経穴破綻状態に追い込まれてしまうことになりかねない。

このため逆に、他の預金者のかなりの部分が預金の払い戻しを請求した場合には、残りの預金者にとっても払い戻しを請求することが得策となる。というのは、多くの煩金者が払い戻しを請求した結果、当該の銀行が経営破綻してしまえば、残りの預金者は払い戻しを今後とも受けられなくなってしまうからである。したがって、ある一定比率以下の頂金の払い戻しが請求されると、取り付けの発生は不可避なものとなる。以上の意味で、銀行に対する信認が失われると、取り付けの発生から銀行の経営破綻にまで事態が進行する可能性が高い。しかも、そうした事態は、一銀行だけにとどまらず、他の銀行にも波及する傾向がある。

取り付けの伝染が起き、多数の銀行が経営破綻に追い込まれることになれば、金融サービスの安定供給に丈障が生じることになり、信用秩序の維持はかなわなくなる。こうした銀行危機と呼ばれるような激烈な形態での「市場の失敗」を回避するためには、政府は、銀行の経営状態のいかんにかかわらず頂金の払い戻しを保証するというかたちで、預金者保護を図る必要がある。その一方で、実際に銀行の経営が健全に保たれるように(政府保証が乱用されないようにするために)、公的当局は銀行に対する監視者(モニターとしての役割を果たさなければならないことになる。

こうした事情から実施されている銀行に対する監督や規制といったかたちの公的介入は、公的当局が預金者に代理して債権保全のために行う活動としての性格をもっものだと解釈できる。銀行以外の金融機関のうち、とくに保険会社に対する規制の根拠についても、これと同様に理解できる。すなわち、小口で分散している債権者(保険契約者)は、サービス提供を受けている債務先企業の経営状態を監視し、その経営者を規律づける能力と誘因をもたない(効率的経営を促す努力は公共財となる)ので、そうした債権者を保護するために、公的当局が代理した行動をとる必要がある。

401kは必要ない

この転換によって、国民年金の空洞化はなくなる。もちろん、それは、現行の制度分立を前提にして、ただ国民年金の定額保険料を税に転換するのではなく、後述するように単一の年金制度を作ることによる。つまり国民年金加入者も他の年金加入者と同じ社会保障税を支払い、同じ年金を受け取るようになるのである。この点は、あとで企業年金の401kと対比させて論じよう。高齢化のピークを過ぎた将来時点で、年金制度を財政的に安定させるために、経済成長スライド方式を採用することである。この仕組みは、まず納めた社会保障税の総額を平均余命で割った額が、毎年の年金給付額の基礎になる。

それを毎年の現役世代の一人あたり所得上昇率でスライドしてゆく。こうすると、年金の財源となる現役世代の所得と年金の支払い額が、きちんと対応するようになる。つまり退職世代の年金支給額は、その財源となる現役世代の納税額の伸びにリンクするので、将来的に年金財政は非常に安定することになる。これは世代間連帯をより社会化させるという考え方に基づいている。つまり高い成長があれば、その成果を現役世代と分かち合い、成長が低下したり物価が上昇したりすれば、その痛みも分かち合うのである。

これまでのように、自分が積立てた保険料=「貯金」を老後に受け取るという積立方式の考え方をとるかぎり、世代毎のあるいは個人毎の損得勘定ばかりが前面に出てしまい、結局、急速な高齢化に伴って現役世代の負担が重くなるのを避けるために、公的年金制度を縮小せざるをえなくなってしまう。これでは、年金制度はジリ貧になってゆくしかない。このように報酬比例部分を含めて本格的な税方式を採用すると、人々がどのような職業や企業を選択しようと、ライフスタイルの選択に対して中立的になる。まず、この年金制度の出口から考えてみよう。そこでは、単一の年金制度に一元化されるので、積年の年金制度の分立問題が解決することになる。

サラリーマンであろうと自営業者であろうと公務員であろうと、同じ社会保障税を納めることになるので、同じ年金給付を受け取ることになるからである。これまで、国民年金制度だけは、定額保険料で給付水準が低いために、他年金に比べて著しく不利に扱われてきた。それが国民年金制度の空洞化を招いてきたと言ってよい。この単一の所得比例年金に転換すれば、こうした不利は除去される。それだけではない。サラリーマンから農業や自営業に職業を変えても、同じ単一の年金制度に帰属しているので不利益が生ずることはない。サラリーマンが企業を変わっても同じである。

財産形成給付金信託

財形年金貯蓄の一定の要件とは、五十五歳未満の勤労者が締結した契約で、①五年以上の期間にわたって積み立て、②六十歳以降に年金として受け取ること、③年金の受取期間は五年以上の期間にわたるものであり、④年金の受け取り以外のための払い出しは行わないこととされています。この要件を満たすことにより、財形貯蓄、財形年金貯蓄あわせて元金五百万円まで利子などに所得税がかからないものとされています(ただし、生命保険の財形年金契約については、払込保険料累計三百五十万円までについて非課税とされます)。なお、財形年金貯蓄契約は、法令により一人一契約であることとされています。財形年金信託は、改正財形法にもとづいて、昭和五十七年十月からスタートしました。

この信託は、財形信託と同様既存の商品を利用しており、このための特別の信託は作られていませんが、金銭信託型商品のほかに、高金利商品として人気の高い貸付信託「ビッグ」と金銭信託を組み合わせて、年金の支払いのためにうまく両者の特徴を活かした商品を開発しています。財形年金貯蓄は、積み立てと年金の受け取りで最短でも十年という長期の貯蓄ですから、制度の伸展とともに信託を利用する割合も一層高くなるものと期待されます。これまで述べた財形貯蓄制度、財形年金貯蓄制度は、勤労者が自分の賃金から貯蓄をする制度ですが、昭和五十年の財形法改正によって、事業主がこれら財形貯蓄等をしている人に奨励金を支給する制度ができました。

これを勤労者財産形成給付金制度といい、俗に第二財形と称しています。この第二財形は、民間企業が、財形貯蓄、財形年金貯蓄をしている従業員を受益者等として信託、生命保険、証券投資信託などと契約し、奨励金を拠出し積み立てるものです。この拠出の対象となるのは、過去一年以上財形貯蓄または財形年金貯蓄に加入している人とされ、一人当たり年間十万円か拠出額の限度とされています。こうして毎年積み立てたものを七年ごとに本人に支払う仕組みです。第二財形の拠出金は、事業主の損金または必要経費とされ、一方七年ごとの給付金は従業員の一時所得とされて税制上の優遇措置が講じられているほか、制度を実施している事業主が中小企業の場合には、国から勤労者財産形成助成金が支給されます。

この第二財形を扱う信託が、財産形成給付金信託と呼ばれるもので、企業拠出による他益信託であることなど法律によるいろいろの制約があることから、金銭信託など既存の制度によらず、新しい種目を設けました。この信託は、年金信託と同様各企業との契約ごとに個別の計算をするのですが、その資金は財産形成投資基金信託に再委託し、合同運用しています。したがって、この両信託は二重信託となっています。この信託の配当率は、実績によっていますが、金銭信託の配当率が目安とされています。

市民の非暴力抵抗ほど明瞭な自衛はない

換言すれば、軍隊というのは、その目的の点で本質的に殺人の組織であり、その組織構造の点で本質的に反民主主義的であるという意味で、二重に非人間的な組織なのです。これは権威主義的なヒエラルヒーの組織であり、上官の命令に下の人間が異議を申し立てたり、自分の判断で別個の行動をすることは本来許容されず、個人の基本的な選択の自由、とくに生死にかかわる選択の自由を許容しないのです。ですから、自由を守るためにわれわれは戦わなければならないと叫ぶその軍隊組織自身が、その構成員の自由を否認することになるのです。軍備強化を主張する人々は、軍隊は本質的にそうした問題を内包していることを、はっきりと自覚しておくことが必要です。

第三に注意すべき点は、市民の非暴力抵抗ほど明瞭な自衛はないということです。ここでは守る主体は自分以外になく、また守る手段は非暴力ですから、相手を殺したり相手を攻撃することはできず、自分を守ることに限られる。文字どおり「自」であり「衛」であるわけです。日本の軍隊は「自衛隊」と名乗っていますが、実は「他衛隊」なのです。一つには、国民の間に、自分で防衛の責任を負うのはイヤだが、自衛隊がするならかまわないという態度が広範に存在するという意味において、第二には、「自衛隊」という名のもとに実は一般の市民の利益以外の利益を守ることになるのではないか、と疑いをさしはさむ余地が常にあるという意味においてです。

しかし市民の非暴力抵抗という場合は、抵抗をしたくない人間はしない、抵抗する意思のある人間がする。しかも相手は殺さない。それはもっとも純粋な意味で「自衛」なのです。ですから自衛権とか自衛力という場合に、その理想的な形というのは、市民の非暴力抵抗組織なのです。その意味で、自衛の論理を徹底していけば、非暴力抵抗にいきっかざるを得ないのではないかと思うのです。一九八〇年代に入って、日本の軍事化は急速に進み、軍事費のGNPでパーセント枠の原則は撤廃され、その量的な拡大は質的な変化をもたらしました。それは、一九六〇年以来一貫してきた日米安保体制強化卜先生の表現をくり返すなら、「現代の歴史的変化の意味を読み違え」だ路線二〇八頁)の結果ですが、「冷戦の再来」とか「第二の冷戦」といわれた八〇年代前半の国際政治によって加速されたものでした。

ソ連のアフガエスタン侵攻とレーガン政権の登場が重なり、米ソ対立は厳しい様相を示し、核戦略の面でも、海洋核戦略の進展とSDI開発によって、海と宇宙に新たな核軍拡競争を拡げはじめました。さらに、レーガン大統領の言葉でいえば、ソ連を「悪の帝国」とみる旧イデオロギー対立が持ち出されました。しかし、この深刻な危機的状況は、米ソ双方の国内体制の行き詰まりをも背景にしながら、米ソ両国を緊張緩和と軍縮に向かわせる要素となりました。先生は、一九八四年に米ソ首脳会談の模索が始まった段階で三つのことを指摘されていました(『朝日新聞』夕刊一九八四)。

オランダ領東インドの成立と発展

バタビア、マルク、マラッカの拠点を押さえ、次第に勢力を伸ばしたオランダだが、当時のインドネシアにはまだこれに屈しない諸勢力が各地に存在した。まずスマトラには、最北端に一六世紀から興ったアチェ・スルタンエ国があり、一七世紀には西方のオスマン・トルコ帝国とも結びつつ独自の交易ルートを背景に隆盛を誇った。一八世紀以降は徐々に衰退するが、一九世紀に入ってもオランダはこれを制圧することができなかった。現在、活動が盛んになっている自由アチェ運動(GAM)は、このいにしえのアチェ王国の復活を目指している。また、今日の南スマトラ州にあたる地域には一六世紀後半からパレンバン王国があり、一七世紀前半の一時期にはジャワのマタラムの属国となった。

他方、南カリマンタンには一五世紀後半以来バンジャルマシン王国があり、一ハ世紀前半にイスラムを受け入れたのち、やはり一七世紀にはマタラムの影響下に置かれた。また南スラウェシには、一四世紀以来ブギス族のボネやマカッサル族のゴワなどの諸王国があり、一六世紀から一七世紀半ばにかけて海洋工国として繁栄したが、一八世紀まてにはオランダに服属するに至った。マルク諸島にはクローブ(ちょうじ)の産地であるテルナテとティドーレにそれぞれスルタン王国があり、一六世紀からそれぞれポルトガルやオランダと結びつつ抗争を繰り返したが、一七世紀後半までにはオランダ東インド会社に屈服した。

ヒンドゥーの伝統を守り続けたバリは、いくつもの小王国に分裂しながらも一九世紀になってもオランダに対する独立を保っていた。このように、一八世紀末になってもインドネシアには複数の国家が並存していた。また、北スマトラのバタック族のように、オランダの支配下に属さない種族社会も多かった。一八世紀末、経営の行き詰まったオランダ東インド会社が解散した。また、ナポレオンのフランス軍に占領されたオランダでは、市民革命的性格を帯びた政治・社会変革が起きた。この時期フランスに対抗したイギリスは、海外のオランダ領土を占領した。一八一〇年代前半、のちにシンガポールの建設者となるT・Sフッフルズがジャワに派遣され、占領行政を行った。

このときに彼は、地租制度の導入、ボロブドゥール遺跡の発見、大著『ジャワ誌』の編纂などの業績をあげている。ナポレオン戦争終了後の一八二ニ年、ジャワは新たに成立したオランダ王国に返還された。次いで一八二四年にイギリスとオランダの間に協定が結ばれ、マラッカ海峡を境界に、スマトラはオランダ、マレー半島はイギリスの勢力圏とすることが定められた。これに伴い、マラッカはオランダからイギリスに、スマトラ南西岸のブンクル(英語ではベンクーレン)はイギリスからオランダに引き渡された。現在のインドネシアとマレーシアの国境の原型は、このときにできたのである。

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