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歴史の変わり目

信用創造機能を有する国際的な中央銀行の下で、新たな国際通貨としてバンコールを発行し、各国通貨と一定のレートで結びつける。各国の貿易はすべてこの中央銀行の下で清算され、赤字国だけでなく黒字国も収支均衡の義務を負う。当時も今もケインズ案が斬新なのは、国際収支の均衡を人為的に行う点であろう。自由貿易の通常の学説では、国際収支は為替の調整などを通じて長期的に均衡に向かう。だが彼はそう考えなかった。事実、国際収支の不均衡は、米国が巨大な赤字を抱えるという形で今も続いている。リーマンーショツクにつながる一連の混乱は、こうしたグローバルな不均衡に原因かあったとする説も有力だ。米国が圧倒的な国力で世界を先導していた時代、ケインズ案は現実昧に乏しかった。だが今後世界が多極化に向かうなら、二度は見捨てられた提案が再び脚光を浴びる可能性もある。

ケインズが生きた時代は、今と同じグローバル化の時代であった。その様相は、第1次世界大戦を契機に様変わりした。英国は指導的地位を失い、後にその地位を襲うことになる米国にはまだその準備がなかった。不況になると輸出を拡大するしかなく、それが軍事的理由と結びついて帝国主義の動きに拍車をかけた。大恐慌後は通貨切り下げ競争が本格化し、英米を皮切りにブロック経済に走った。彼が活躍した1920~40年代は、歴史上まれに見る大混乱の時代だったのだ。ケインズは不確実性を強調した学者だったが、その背後にはこうした歴史的事情があった。不確実性の時代とは、急激な経済変動がいつ起きるか分からず、希望と不安が入れ代わり立ち代わり表れる時代である。

将来不安から企業は投資を控えるようになり、投資家は長期的な利益より相場の一瞬先を読むことで利益を上げようとする。リーマッーショックと国家債務危機でリスクに過敏になった現代経済も、再び不確実性の時代を迎えている。今の日本にケインズが生まれたら、どんな提案をしただろうか。日本は今やデフレ先進国である。内需不足や円高から、企業は海外シフトを強めつつある。経済的不平等は拡大する傾向にあり、特に地方経済の疲弊が顕著だ。内需拡人を図ろうにも世界的な国家債務危機で、これ以ヒ財政拡張に走るのも限界がある。現状では日本の景気回復は、世界的な景気回復を待つより手立てがない。

ケインズなら、この危機は一国で解決できる水準を超えていると判断しただろう。そして日本の立場から世界経済の新たな管理について構想を練り、世論の説得に努めたに違いない。中国に抜かれたとはいえ、‐本は世界で3番目に人きな経済人国だ。今の世界は長期的に見れば、欧米の衰退と非欧米の台頭という歴史の変わり目にある。過去の歴史を見れば、パワーシフトが起こる時代には必ず戦争のようなきな臭いことが起こる。第1次グローバル化の末期は、まさにそのような時代だった。同じ悲劇を回避するために日本に何かできるのか。不確実性の時代に必要なのは、そうした巨視的な展望である。

危機に直面した世界経済で、講じられた経済政策がこれほどまでに特効薬とならないのはなぜだろうか。財政金融政策が様々に実施されても、リーマンーショツクや欧州財政危機の苦境からは容易に抜け出せそうにない。それは間違った政策のせいなのか、それともそもそも政策自体に効果かないのか。ミルトッーフリードマン(1912~2006年)の考え方は、危機下の財政金融政策を考える上で、我々が見落としがちな視点を提供してくれる。フリードマンが1963年にアンナ・シュワルツ氏と共に著した『米国金融史』は、米国の大恐慌の原因を探究した大著である。その中で彼らは、大恐慌は市場が経済を不安定にしたことによって起こり、金融政策は無力だったとする当時の定説を否定。当時の米連邦準備理事会(FRB)が適切な金融政策を取らなかったために大恐慌を助長したと結論づけた。

中国・インドの水戦争の行方

日本列島が水に恵まれているのは、偶然の産物ではないと倉前は強調する。私たちの祖先が長い間、間伐などの手入れをしながら木々を育て、切り出したら次の木を植え。というふうに山を守ってきたからこそ森林とその保水力が損なわれなかった。お蔭で私たちは今も、豊かな水の恩恵を得ているというのである。

ところが中国にも朝鮮半島にもロシアにも、そうした考え方も習慣も無かったようだ。自分が金を投入し努力して植えても、この木が大きくなる頃には誰のものになるかわかったものではないというのが大陸での伝統的な考えだというから救われない。

皮肉なことに、そうした大陸式の考えゆえに失われた緑を取り戻そうと、この20年間、中国内陸部での植林に非常に熱心に取り組んできたのは、日本の環境保護団体、保水繊維などの先端技術をもつ日本の企業、そして善意の日本人ボランティアの人々である。

地球環境のためによかれと思って「中国での植林」に情熱的に取り組む日本人の善意や努力に水をさすつもりは毛頭ない。しかし次のような事実を知ると、こうした植林活動の意義が少々異なったものに思えてきそうである。

世界中で、中国人グループによる乱伐、違法伐採は増える一方なのである。国際環境保護団体グリーンピースの森林担当者は「世界で伐採される木材の10本に6本は中国に向かう」と語り、現在の速度で伐採が進めば、遅かれ早かれ、東南アジアから森林は消滅してしまうおそれがあるとも語っている。

たとえば、い中国南西部のミャンマー国境との町、弄島では、「11月から1月には、道路が、ミャンマーからの材木を積んだトラックでいっぱいになって何時間も通行不可能になる」という。中国の雲南省から来た業者は伐採可能な森林を見つけるのにも苦労しているほどだそうだ。

中国は自国内では、外国の援助まで取り付けて森林保護に取り組んでいると大いに宣伝し、上方、ミャンマーやアフリカ諸国においては、腐敗した政権と結び付いて大規模な森林伐採を続けているのである。中国政府のこうした欺隔は、このことに限った話ではない。

言葉は悪いが、地球全体という視野で見たら、懸命に中国で植林する日本人の努力が「ザルで水を汲む」結果になっていないか、それが気がかりである。「中印水戦争の行方は?」中国政府がアフリカ諸国に対して、石油や鉱物、木材などの資源と引き換えに、莫大な経済援助をしていることは、日本でも知られることとなった。こうしたことは、圧政者人権弾圧の助けになるとして欧米から非難を受けている。

一方、中国流の経済援助は、金とともに大勢の中国人労働者を送り込んで施設建設や鉱山の採掘森林伐採を行なうという方式。地元の雇用が全く促進されないとして、現地の一般国民からも大きなブーイングが起きている。直截にいうと、中国の13億人の人口が、もはや他国民にとっての「凶器」となっているのだ?経済発展に伴なって、物資やエネルギーの需要が増えるだけではなく、中国は常に「多過ぎる人」の住む場所を探し、「多過ぎる」人のための仕事に困っている。

それらを賄うためならば、なりふりを構わない。他の国、他の民族から奪えるものは奪っていくのみ。かつてチベットから水源を奪い取ったようにである。ところで中国・インドの水戦争の行方はどうなるのであろうか?

1960年代に中印国境紛争で大勝利をおさめて以来、中国は一貫してインドを下に見ている。現在もGDP規模では、インドは中国に及ばないが、科学技術開発力などの点では中国をはるかに上回る国力がある。

もし中国がインドを甘く見たまま軍事衝突にでも至れば、インドは「1億人の生命をかけて一歩も譲らないだろう」と米紙「ユナイテッドプレスインターナショナル」は予測する。加えて「インドに味方する国は多く、中国は短期的には優勢に立っても最終的には劣勢に立たされる」とも予想している。

私たちは他国の「水戦争」を対岸の火事と考えるのではなく、私たちの食や産業の「中国依存」がめぐりめぐって、この争いを助長させていることを考えるべきだろう。

「反日」への批判意見

政府が日本に批判的な愛国教育に力を入れたのであれば、それを党の方針ととらえ、ふだんできないデモも「反日」であれば許されると考えてしまう土壌が成り立つ。逆に日本に好意的なニュースは表面化されづらくなる。中国の役所のことなかれ主義が加わることで、些細なものが検閲に引っかかる。ある作家は21世紀に入って日本を旅し、著書にその時の見聞を書いたが、文中の「日本の公衆便所はきれいだった」が検閲に引っかかるなど、大幅な修正を余儀なくされたという。そういうわけで、社会に流通する日本情報はきわめて限定されたものになってしまい、その中で官製の日本観だけが浮かび上がってしまう。これに官製の情報では生ぬるいと感じる力が働く。もちろん、インターネットを使えば、戦争以外の広範な情報を入手できるし、そのようにしている人もいる。けれども、日本人でも、ある程度中国と関わりを持つまでは、よほど刺激的なネタでもない限り、中国語のサイトや中国研究のサイトには行かないように、日本と何の関わりも持たぬ中国人が、いきなりインターネットで日本情報を独自に入手するのは容易ではない。

もし、愛国教育が大々的に行われたとしても、その一方でもっと多様な日本情報が流布されていたとしたら、閉じられた空間にはならず、「反日」はもう少し違った形になっていたはずだ。「反日」を伝える際にややこしいのは、戦争問題を中心に日本に対するなんらかのマイナスの印象を持たない中国人がいないと言える中で、とは言え、一連の「反日」に賛成するかしないかは別だということである。日中間の議論はどうしても日本対中国に一元化されがちで、「反日」に反対することが、ともすれば「小泉首相の靖国参拝OK」「売国奴」などと受け取られかねない。しかし、日本が正しいのか、中国が正しいのか、というような問いかけは、国家と国民の思いが一丸となっている状況でしか成立し得ないものであり、日本がそうなっていないのと同様に、党が人民を代表するはずの中国でもそうなってはいない。「小泉首相の靖国参拝OK」ではないが、「反日」に距離を取り、批判する意見は中国にも多数存在した。

評論家の劉棒は「『反日』は中国内部の責任を外に転嫁する役割を持ってしまっている。反日に邁進しても、その結果もたらされるのは、日本は日本のまま西側先進国に列し、他方で中国は自由民主という世界普遍の価値からはじき出された発展途上国のままだということに過ぎない」と語る。若手の有名作家・余傑は「多くの人が不満を持つ中で合法的にそれを爆発させる対象が日本しかなかった」と言い、合わせて愛国教育をはじめとした党の宣伝工作を痛烈に批判している。先にも述べたように、愛国主義者の宋強は、米国への批判がないがしろにされることを警戒し、彼の盟友で日頃日本に対して厳しい意見も多い張蔵蔵は「日本の文化・社会など学ぶべきところは学び、その上で言うべきことも言うべき。怖れの裏返しのようなことをする意味はない」と批判している。

以上の話は、すべてぼくが雑誌などに掲載することを前提に彼らから直接聞いたものであって、ぼくが日本の雑誌で紹介したことはあったものの、中国で発表されたわけではない。以上の話が新聞・雑誌に載るような報道の自由が中国にはなかったのである。張蔵蔵のように、もっと日本のことを知った上で行動すべきだという意見は、反日デモの前後に限らず、日本に対してさらに厳しい見方をする人たちからもあかっている。日本では反日に凝り固まった人間と見なされがちな民族主義者・馮錦華(2001年に靖国神社で落書きをして逮捕、インターネットなどで英雄視されてきた)にしても、「中国にとって最も重要なのは日本を理解することだと思う。日本がわれわれにとって、はるか遠い隣人であることはわれわれの発展にも、いわゆる中日友好の長期的な利益にとっても不利なことだ。

日本は経済大国で、学んだり取り入れるべきことは多い。曖昧に理解したままでは何も解決しないのだ。文化老大国の態度で五千年文明などと大きなことを言うのではなく、政府やメディアは実事求是の態度で、深い理解の前提で、もっと現実の日本をそのままの形で庶民や若者に伝え、彼らに判断させるべきだ」(劉棒『塀棄中日友好的郷愁』所収)と、きわめて冷静なのだ。そのほか、コアモそのものをたのしむデモにすぎない」(大工場職員)、「たんなるパフォーマンス。結果を求めた行為ではなく、無意味」(アーティスト)など、冷ややかな批判も聞かれた。これらの批判のほとんどが表面化しなかった。ちなみに、むしろこちらの方が見落とされがちだが、反日デモを評価する意見もテレビや新聞で紹介されたわけではない。批判意見と同様に、表れたのは主にネット上で、ただしそこでは評価する意見が圧倒的に多かった。国内のテレビや新聞はデモそのものを伝えなかった。

プロダクトイノベーションを目指して

一方、派遣労働のうちの日雇い派遣労働(登録しておき、仕事かあるときだけ派遣される)については、かねてより非人間的だとして批判が大きく、民主党や公明党か全面禁止を提案していた。事態か急展開したのは、二〇〇八年六月、一七人を死傷させた秋葉原の通り魔事件の犯人か派遣社員で、その実態のひどさが明らかになったことによる。厚生労働省の有識者研究会は、二〇〇八年七月、一日単位にとどまらず三〇日以内の雇用契約を禁止するという報告書をまとめ、秋の臨時国会には、日雇い派遣の禁止法案か提出され、二〇〇九年の通常国会で継続審議された。座長の鎌田耕一東洋大学教授は、「派遣制度を経済的効率性だけではなく、社会に許容されるように見直すべきだ」としている。自由に金儲けをさせることを許すのではなく、労働者の人権に重きを置き、社会の秩序を守る姿勢へと方向転換したわけである。

「自由より秩序」、「金より人」を優先させる日本人本来の価値観かようやく復権したのだ。この禁止法案は、衆議院解散のあおりを受けて廃案となり、総選挙後、再び議論されることとなった。製造業への派遣の禁止が政治の世界で話題になっている昨今、工場における請負の全面禁止という主張は、ひと昔前なら気違い沙汰とされただろうか、現実に次の政治日程に上ることになると思われる。以上のように労働条件の改善を目指していろいろな規制を強化しようとすると、労働コストか上昇し、企業の力がそがれ、国際競争力が落ち、まごまごすればつぶれてしまうと、すぐ批判か出る。

しかし、現実には、非正社員は、国内の小売、流通などサービス産業で働いている者が大半だ。みながフェアな競争をするなら、なんら問題はない。製造業でも、日本企業がおもに競争しているのは、同じものを横並びで開発している日本企業同士である。もちろん、当然、今より製品やサービスのコストが上がり、その分か消費者に転嫁されることになるだろう。けれども大局的に見れば、限界を超える低賃金で働いている非正社員に対して、消費者か富を移動させるということにほかならない。他人に対する「思いやり」と「いたわり」というもっとも基本的な気高い日本精神に基づけば、これくらいの犠牲は喜んで受け入れられるのではなかろうか、というのは、楽観的にすぎるのであろうか。

今後もわたしたち日本人か豊かに暮らしていくためには、大局的に見て何がいちばん大事なのか。金で金を稼ぐ金融分野だけでは、当然のことながら日本を今後とも栄えさすことはできない。国内ではサービス産業がもっとも大きいが、それは国内で生産、消費される基本的には閉じた活動で、国の中だけの富の移動である。資源を輸入するためには、それに見合う輸出か最低限必要だし、国民全体か豊かになっていくためには、輸出による外国からの資金の流人を促進していかなければならない。かといって、海外の現地生産によるロイヤリティ、海外への証券投資、アニメなどを外国に売る知的財産収入などの資金だけでは、経済大国とたった日本を支えることはできない。

日本か繁栄を続けるためには、今後とも強力な製造業が国内に不可欠だろう。やはり、国内の製造業か日本の命運を握っていると言わざるを得ない。製造業にあっては、技術は日進月歩そのものであり、次々と新製品か市場に登場してくる。生産のやり方ではなく、画期的な新製品を開発するプロダクトイノペーションがますます重要となってくる。日本企業か多数海外展開する時代にあっては、生産技術はたやすく外国に流れてしまう。中国をはじめとするアジア諸国は、すぐ日本の後まで迫っている。生産のやり方を改善するプロセスイノベーションだけではやっていけないのだ。まったく新しい製品をつくり、特許でがっちり固め、外国から真似されず、独自に市場を切り開いていくプロダクトイノベーションがぜひとも必要だ。

北朝鮮で急変事態が発生した場合

高官は、戦作権が委譲されれば米韓連合司令部は解体されるとも付け加え、拙速な韓国の要求に対し、米国に苛立ちがあるかのような印象を与えた。例のごとく、盧武鉉大統領の反応は素早かった。翌日の『聯合ニュース』との特別会見での発言だ。「わが国は自国の軍隊に対する作戦統制権を持っていない唯一の国だ。戦作権こそ自主国防の核心であり、自主国防こそ主権国家の花である。これから先、南北間の緊張緩和のための軍事信頼構築の協議をするときも、韓国軍が戦作権を持っていてこそ対話を主導できる。(中略)韓国の大統領が米国の指図通りに『はい、はい』と答えるのを韓国国民は望むのか。(戦作権の返還を)わが軍は一二年に想定し、(米国が)○九年としてきたわけだが、その問のいつでも差し支えないと考える。今、返還されても戦作権を行使できる」

この会見からわずか一〇日後、ラムズフェルド国防長官(当時)は、盧武鉉大統領自ら決定づけてくれた「○九年の戦作権委譲」を、尹長官に文書で通告した。同盟関係を揺るがしかねない戦作権の委譲をヽ盧武鉉政権ではなく、ブッシュ政権が急ぐ理由はどこにあったのか。米軍には太平洋(アジア・太平洋)、北部(北米)、南部(南米)、中部(中東)、ヨーロッパ(ヨーロッパーアフリカ)の五つの地域軍別司令部があり、前述した通り、太平洋軍司令部隷下の陸軍第八軍が、在韓米軍の最高司令部としての役割を担っている。在韓米軍の取材をする国内外の報道関係者は、司令部が平沢基地に移転するまでは、ソウルにある第八軍の広報部で許可を得なくてはならない。軍隊が存在する以上、仮想敵国に対する軍事作戦計画がなくてはならないが、韓国の場合、休戦状態が終息しない限り北朝鮮が対象となり続ける。太陽政策や国防白書の美辞麗句だけで、現実の軍事対立状況を変えることはできないからだ。

朝鮮有事を想定した軍事作戦計画は、米第八軍と韓国軍で構成される米韓連合司令部によって作成され、なかでも「作戦計画(OP)五〇二六」と「作戦計画五〇二七」の存在がよく知られている。「五〇」は太平洋軍の作戦計画であることを意味し、朝鮮有事で在日米軍と自衛隊が遂行する支援計画としては「作戦計画五〇五五」がある。作戦計画五〇二六は、北朝鮮の主要軍事施設を精密攻撃する軍事計画であるのに対し、作戦計画五〇二七は、北朝鮮の攻撃によって全面戦争に突入した場合を想定している。九四年の核危機のとき、当時のクリントン大統領は作戦計画五〇二六をもとに、寧辺の核施設をピンポイント爆撃する計画をたて、金泳三大統領の猛反発にあった。全面戦争につながる可能性が高かったからだ。作戦計画は二年ごとに更新され、北朝鮮の崩壊が危惧された九八年の計画では、金正日政権の除去を目的とする新たな概念が盛り込まれたこともある。

この他にも、北朝鮮で急変事態が発生した場合を想定し、大量破壊兵器の統制や占領地域に軍政を敷く「作戦計画五〇二九」の作成が推進されたが、盧武鉉政権の反対で実現しなかった。北朝鮮の政変に干渉するのは主権侵害に当たり、しかも、米軍の介入が危機を助長するおそれがあると判断されたためだ。この交渉過程で盧武鉉大統領が考える「自主国防」と、米軍が主導する「韓国防衛」の違いが浮き彫りになり、米軍の朝鮮半島政策に重大な変化が起き始めた。米韓連合司令部が解体されて韓国軍に戦作権が委譲されると、米軍が韓国軍の指揮下に入ることはありえないので、米韓は指揮系統が二つに分かれた作戦計画の作成を迫られることになる。韓国の自主国防の考えに従えば、米軍が休戦ラインを越えて北朝鮮へ侵攻するのは困難になるので、地上戦は韓国軍が遂行し、米軍は空・海軍による支援作戦に徹することが考えられる。

トリップワイヤーとしての第二歩兵師団や、戦作権を持つ在韓米軍が存在しない以上、米軍が全面戦に自動介入する必然性はもはやない。洋上や空中から韓国軍の援護射撃を行うだけだ。大規模な地上軍の派遣がなければ人的被害を最小限に抑えることができるし、鴨緑江で中国と直接対決する危険もなくなる。また、北朝鮮占領後にイラクのような無秩序状態に陥ったとしても、軍政に関わらないのだから、その責任を負う必要もない。戦作権の韓国軍への委譲は、米軍再編とイラクの教訓が生み出した妥協の産物ということだろう。そして、ブッシュ政権の思惑にうまく嵌ってくれたのが盧武鉉大統領だった。

底抜けに明るい女性

タイムカードは性悪説に基づく管理だと思う。人間の良心を信じるべきだと訴え、タイムカードの廃止を提案した。労組は賛成してくれたが二工場の部長たちは大反対で、お蔵入りになりかけた。タイムカードを廃止すれば労務管理の責任が製造現場に移り、事務の合理化にもつながる。これからは製造現場を中心に運営すべきだと幹部を説得した。1963年、3ヵ月だけ様子を見る約束で何とか実施にこぎ着けた。狙いは的中した。従業員たちは以前より早めに出勤し、製造ラインも早く動き出すようになった。従業員の出勤率、工場の稼働率かともに向上したのだ。68年には本社を含む全社でタイムカード廃止に踏み卯った。一律な管理をできるだけやめ、思い切って任せてみる方が人のやる気、意欲を引き出し、最大限に能力を発揮できる。性善説に基づく管理の大切さを確信した。

工場内に提案箱を置き、従業員に製造工程の改善を提案してもらう制度も私のアイデアだ。品質管理(QC)運動という言葉はまだ普及しておらず、先行していたいすごに足を運んで勉強した。こちらは社内の抵抗もさはどなく、採用が決まった。個人の提案だけでなく、グループ単位の提案も認めるなど独自色を出した。100箱以上の提案箱を毎月1回開けると、「この工程のビス留め作業は自動にした方が効率がよい」といった提案がぎっしり。改善運動の宝庫だった。もちろん失敗もある。職場の人間関係に関する不満を匿名で投書する人も多く、相談箱という別の箱を設けたところ、今で言う内部告発のオンパレードに。部長だちから諸悪の根源だと非難され、あえなく廃止に追い込まれたが、工場改革の種は尽きない。

高度経済成長の波に乗り会社全体も上り調子。63年10月にはダイキン工業に社名を変更した。この前後に係長、課長へと昇進し、部下も少しずつ増えた。月に一度、工場で開かれる役員会の資料準備も大切な仕事だ。資料作りのヤマ場ではよく徹夜した。自分の意識についてこない部下は不熱心だと感じ、容赦なく雷を落とした。自分は無断欠勤を上司から許された身であることを、すっかり忘れていた。怒った自分を反省して毎月のように彼らを自宅に招き、ごちそうする習慣がついたのもこのころだ。すき焼きを食べた徹夜マージャンをやったり。普段こき使っている部下への罪滅ぼしのつもりでもあった。

見合い結婚をしたのは父の影響が大きい。若いうちに恋愛をするのはよいが、結婚したら家庭に責任を持たねばならない。独身の間に一生の仕事の基礎作りに精進し、結婚は30歳ごろにしたらよい。大学生のころからこんな話をよく聞かされ、頭にすり込まれていた。大学時代に好きになった女性がいたのだが、純愛を貫いた。燃え尽くしたと言ったら語弊があるが、何となく結婚は見合いでと考えていた。父の仕事の関係で両親が東京暮らしをすることになり、京都の家を守ってほしいという気持ちかあったのだろう。次々と見合い話を持ってきた。

あっという問に見合いは5回を数えたが、いいなと思うところまではいかない。6回目の女性は相愛女子大学(現・相愛大学)ピアノ科卒で「一生ピアノを習い続けたい」と条件をつけている。生意気だと思ったが、あとから届いた見合い写真を見て驚いた。学生のころからファンだった女優の山本富士子さんにそっくりだ。急に心が傾いた。見合いは私の家で。実際に山本富士子さんに似ていたかどうかはあえて言わないが、底抜けに明るい女性。家のなかにボタンの花が咲いたようだった。見合いから半年後の1962年10月、万里子と結婚した。私は27歳、妻は23歳だった。

「政策起業家」の本質

ルーゴフは歴史学を「時間の進展における人間社会についての科学的な研究」と定義した。これは、今の日本で歴史学が果たすべき役割を言い当てている。歴史学は経済学のような理論的な基盤に欠ける。それでも、現状分析さえ頼りなげな一部の社会科学に重みを与える歴史学の効用を否定できない。ブローデルの偉業は、多弁で美麗なうわべの概念に頼る学問よりも、歴史学が危機の時代に頼りがいがあることを示したともいえよう。ジョッーロー(1671~1729年)は、経済に関する著作はあるが、基本的には政策起業家とでも呼ぶべき財政家で、アカデミックな経済思想を展開したり、経済論争の当事者となったりした人物ではない。だがフランスのルイ15匪の治世下、莫大な債務残高に悩む国家に対し、それを軽減して、経済発展を促す政策を[経済システム]として売り込み、実行に移した人物として異彩を放っている。

1671年スコットランドに生まれたローは、若いころロンドンで女性をめぐって決闘を行い、相手を殺してしまった上に、脱獄して大陸ヨーロッパで逃亡生活を送り、その後、ブルボン王朝に取り立てられ、金融財政の総責任者として采配をふるった。だが結局、フランスにバブル経済をもたらし、最後はベネチアで58歳の時に客死する。多くの小説や戯曲の題材になるほど劇的な人生を送った人であった。とりわけ彼の名前か出てくるのは、彼の「経済システム」の運用を通し、株価バブルを起こし、それを暴落させた張本人としてである。多くの文献では希代の詐欺師あるいはトリックスターとして扱われてきた。

ローの名誉のために述べておくと、シュンペーターは社会的なイノベーションを行う起業家を評価し、その意味でジョンーローを高く買っている。実際、1980年代以後、ダブリン大トリニティ・カレッジのアントイン・マーフィー氏らの地道な文献収集の結果、ローの著作や経済政策の実態が明らかになり、ローが行ったこと、議論したことは、実現不可能な絵空事をまくし立てる詐欺師の仕事ではなく、プロの政策起業家の仕事であったという評価が定着してきた。学説史上の再検討を行うというより、ローが実際に政策起業家として行った「経済システム」の構築に関し、歴史的状況の中で概観する。すなわち、18世紀初頭のフランスの政治経済社会状況を踏まえた上で、なぜローがそこに登場し、また排斥され、その結果フランス社会に何か起きたのかを見ていくことで、現在日本の置かれた状況への教訓を得たい。

ジョン・ローが行き着く前のフランスは太陽王ルイ14世の治世で、絶対工制が最盛期に達し、ベルサイユ宮殿の建築やその他の顕示的消費、文化、芸術活動が活発に行われていた。また、ルイ14世はヨーロッパ諸国との間で戦争を収ね、スペイン王位継承戦争での敗北まで、累計で30億リーブル(フランス国民総生産の1・5~2倍)という債務を抱えていた。この債務は、国王が国家収入の基礎となる徴税権を担保に借り入れを行ったものである。課税対象となる塩、たばこ、アルコール類などにかかる諦税の徴収は徴税請負人が担当した。

この徴税請負人は大貴族や金融家であり、税収から徴税手数料を得ていた。当時のフランスの国家財政は、歳入はそれぞれの徴税請負人が集め、歳出は宮廷が勝手に決める制度になっており、歳入と歳出の差額は徴税請負人や金融家からの借り入れで賄っていた。この時期の金融・財政問題は、財政を管理し規律を働かせるような仕組みがなく、また金融家が保有する資金は国家債務を賄うために使われ、その他の産業や貿易など国家の成長を高めるような分野にほとんど配分されていなかったという点にある。その結果、農業生産と人口の減少に見舞われ、デフレが続いていた。

BISの思い出

BIS(国際決済銀行、Bank for International Settlements)のことを私がはじめて知ったのは、一九五七年一一月一四日、日銀の元理事田中鉄三郎氏からであった。この日、日米協会からの依頼で米軍将校二名を田中邸の夕食に招くに当たり、世銀研修から帰国したての岡昭氏と、米国留学から帰国したての私の二名が同席を命ぜられた。席上、田中氏は、二九年からロンドン代理店監督役としてロンドンに在勤中、ドイツの第一次大戦の賠償金をドイツに再投資するために設立される国際決済銀行の創立委員となったこと、その所在地について意見が分れたとき、スイスとすることを提案したこと、一九三〇年、同行が創立されたとき、その初代の理事の一人となったことなどを語った。敗戦の影響からまだ抜け切っていなかった私は、第一次大戦後一度は国際的地位の高かった日銀の過去の栄光に耳をそばだてた。

田中氏が理事であった当時のBIS調査局長はヤコブソン氏で、戦後IMFの専務理事となった。五八年春、同氏が訪日した際、田中氏は自分が会長となっている日本外交協会で同氏に講演をしてもらうことになり、私はその通訳をつとめるよう依頼された。ところが、あいにく下手なスキーで軽い骨折をしたため、私はその任を果たせなかったが、同氏の英語は、強いスウェムアソなまりで頗る難解であったそうで、私は幸い語学力の馬脚をあらわすことを免れた。七〇年、BISが創立四十周年を迎えたとき、創立時の理事のうち唯一人の生存者であった田中氏にも、六月の年次総会への招待状が送られた。

もう健康を害していた田中氏は出席を断念したが、その後しばらくして訪日したBISのダロマ文書局長が電話ででもぜひお話ししたいというので、私か田中邸に電話した。夫人によると、氏は風邪で休んでいるということであったが、ひとたび電話に出ると、ダロマ氏を相手に洽々と話し続けた。BISの思い出が尽きなかったに違いない。これより先、六二年六月から二年間、私はロンドンに勤務したが、当時、若手駐在員は次々と諸国の中央銀行へ二週間の研修に出かける慣例となっていた。私の場合は、幸いにもBISへ出張する順番に当たっており、六四年三月、バーゼルの同行に二週間厄介になった。研修のはじまる直前の週末、当時は土曜日の午後から始まった月例会に、前川理事と星野ロンドン駐在参事が出席し、私もこれに随行した。

時あたかもわが国の国際収支が悪化し、日銀がニューヨーク連銀との間で締結済のスワップを五〇〇〇万ドル引き出す(実質的には等額の円を担保に米ドル資金を借り入れる)という事態が生じており、BISからも日銀に資金援助をしてもよいという話が出てきた。このBISからの借入は、結局のところ実現にいたらなかったが、前川理事が自ら本店外国局あてにその内容と問題点を記した電文を起案し、これを私かローマ字に直して、普通電報として発信するようホテルーオイラーに依頼した。電報代が多額で私には払い切れないほどであったが、ホテルのボーイ長が数日間立て替えてくれた。このときの恩義もあって、それ以来私は、パーセルではオイラー以外のホテルに泊まったことがない。

組織の判断に任せる

こうして「秦議書」が担当者の間をグルグルと回っているので、最終的な決定に至るまでには時開かかかる。しかし、いざ決定してしまえば、すぐに実行される。それまで「秦議書」が担当者の間を回っており、それについて何回も会議で討議しているので、内容についてみんな知っているから実行に移すのは早い。これに対し、アメリカの会社では、トップが決めてそれを下に降ろす。だから決定するのは早いが、いざ決定してからそれを実行するまでのあいだに時間がかかる。上から命令されて、その件について知るまで予備知識が全くないからである。ここから日本の会社の意思決定方式は集団主義であり、アメリカやヨーロ乙ハの会社は個人主義であるといわれるが、日本の会社のこのような意思決定方式は、とかく好景気のときには暴走し、逆に不況になると、とたんに消極主義になるという傾向がある。

それと同時に、集団主義のもとでは、自分で判断する必要がなく、たえず他人の動きを見て行動するということになる。その結果、「判断停止」-「判断しない」ことが日本の会社のムードになっていく。集団主義のもとでの競争は集団間での競争になり、「ライバルの会社に負けるな」ということが最大の目標になる。業界で一位になるか、二位になるか、というようなことが最も大事なことになり、業界でのランク、そして会社の大きさを競う。ロドニー・クラークは文化人類学が専門なのだが、その研究の対象として日本の会社人間 肘(カンパニーマン)を選んだ。クラークはその研究のために日本にやってきて、日本の会社に就職してつぶさに観察し、その成果を『ザージャパニーズ・カンパニー』(端信行訳、ダイヤモンド社)という本にした。

その中で彼は日本の会社の特徴として、会社が社会の基本単位になっている。会社の専業度が高い、会社間に階層的な格差がある、企業集団が形成されているという四つの点をあげている。会社間の階層的な格差というのは、業界内で一位か二位か、あるいはその会社が一流会社か二流会社か、ということが厳然として決まっていて、会社人間はもちろん、社会もすべてこういう目で会社を見るということである。そして一流会社に働いている人間は偉く、二流会社の人間は劣っていると考える。良い会社か悪い会社かを判断する基準はいろいろある。その会社の利益率が高いかどうか、従業員にやさしい会社かどうか、あるいは地域や社会に貢献しているかどうか、など多様な基準かおるはずだが、そのなかで会社の規模と業界における順位だけで会社を判断する。

このような日本人の会社観は自分では判断の基準を持たないということであり、これが日本人の判断力を失わせることになる。会社のなかで経営者や従業員がどういう判断をしているか、ということを知ることはむずかしい。会社人間といってもさまざまなタイプの人がいるし、また会社によってそれぞれ異なっている。ただ、平常の場合には経営者や従業員がどのような判断をしているか、ということを外から知ることはむずかしいが、会社が危機に直面するとそれがはっきりとあらわれる。前に引用した石井茂氏の『決断なき経営』はその点て良い教科書である。破綻の危機に直面したとき、経営者、そして従業員がどういう判断をしたか。ひとことでいえばそれは「判断停止」であった。

なにも判断しなかったのである。その結果、山一証券はつぶれてしまったのだが、この「判断停止」になった理由は「自らの判断を決める基準がなかったからだ」と石井氏は言う。ではなぜ、自分としての判断力を持てなかったのか。私は、従業員の多くが判断をする責任を自覚していなかったからではないかと思う。その結果、図式的に言えば、上席者は部下に具体的な判断のついた提案を求め、部下は上席者に決断を求めることとなり、極端な場合には、物事がうまくいかないことを自分以外のせいにするという態度を生むことになる。

四・五億人を超えた網民

大陸内のパソコンから検索結果に表示されたリンク先に飛ぼうとしても、防火長城によって遮断されてしまうが、これまでのグーグル中国、そして圧倒的シェアを誇る百度の検索結果と比較すれば、その違いは検索する者を圧倒するに十分であった。百度で「六四事件」を検索すると、「関係する法律法規と政策により、検索結果の一部は表示できません」(「根据相矢法律法規和政策、部分捜索結果未予昆示」)という文言とともに、検索結果はわずかに九一件。たしかに「天安門事件」のことが書いてあるが、あくまでも「六四事件後、アメリカやフランスなどが中国に対してどういう視点を持つたか」ということや「六四事件があった時に、ちょうどソ連の崩壊もあったりして」といった、世界情勢の変動の一コマとして、この「六四事件」という言葉だけが使われているのであって、内容の説明は一切ない。もちろん学校教育でも中国の歴史に関し、このことを抹殺しているから、80后の青少年たちは「六四事件」そのものの存在さえほとんど知らないままで、あの大陸の上で生きているのである。

一方で、google.com.hkにおけるヒット数は「六四天安門二二万件」「六四照片(写真一一〇万件)「六四事件一一六二万件」「六四事件真相一四六万五〇〇〇件」「六四鎮圧事件一一七八万件」などである。中国国内で三〇%を超えるシェアを持っていた検索サイトが、多くのユーザーを抱えたまま香港に拠点を移したのである。六四事件を直接知る中国大陸の人々が受けたであろう衝撃の大きさ、そしてなにより中国政府が抱いた危機感は想像するに難くない。中国政府は同年六月、この自動転送が行われる限り、ICPライセンスの更新は認めないとグーグルに突きつけた。グーグルはそれを受け入れ、google.cnからの自動転送をやめた上でのリンクを新たに設置することで、翌七月、両者は妥協するにいだったのである。グーグル撤退騒動が投げかけた波紋は、中国の何を照らし出し、世界の何を語っているのだろうか。

圧倒的なネット人口を誇る中国のネット言論の力とその攻防を、分析している。中国政府が管轄する「中国インターネット情報センター」(CNNIC)が二〇一一年一月に発表した「第二七次中国インターネット発展状況統計報告」によると、二〇一〇年コー月までの時点で、中国のネット人口、すなわち「網民」(ネット市民)は四億五七〇〇万人に達した。全人口一三億人強の三四・三%にのぼり、二〇〇九年末から七三三〇万人も増えている。網民の分布は都市に傾いてはいるものの、農村でも一億二五〇〇万人に達しており、決して無視できない数値となっている。また携帯電話からインターネットにアクセスする「携帯網民」の数は三億三〇〇万人で、全網民の六六・二%を占めている。インターネットの使用目的は複数回答で「検索」が八九%、「音楽」が七九・二%、「新聞」ニュース)が七七・二%と、上位三位を占めている。自らの主張を発表する主な手段には、BBS/掲示板(論壇)、ブログ(博客)、思想性を持った特定サイト、ニユースーレスポンス薪聞服帖、大手ポータルサイトのニューストピックスに設けられた「服帖」という書き込み欄)、ミニブログ(微博客)などがある。

また、オンラインで同時に交信できるインスタントーメッセンジャー(IM)を使用している網民は三億五三〇〇万人に達している。ブログ利用者の数は二億九五〇〇万人(全網民の六四・四%)で、ソーシャルーネットワークーサービス(SNS)を使用する網民の数は二億三五〇〇万人(全網民の五「四%」に達している。これらの数値は、網民たちの意見表明に対する欲求がいかに大きいかを窺わせるが、中でもソーシャルーネットワークーサービスは今後のさらなる成長が注目されるネット空間である。というのも多機能であるだけでなく、「網民仲間が気軽に集まって特定のテーマに関して意見交換する場」として機能しており、すでに巨大な人数が存在しているからだ。

もし、その特定のテーマに集まった網民たちが「網上」(バーチャル空間)から「網下」(リアル空間)に飛び出したら、どうなるだろう。反日デモでさえ、最終的には必ずその矛先を政府に向けてくることは、二〇一〇年一〇月に起きた一連のデモが如実に証明している。もう一つ注目すべきなのは、携帯電話のショートメッセージ(短信)であり、携帯網民による情報伝達力は軽視できないものとなっている。特に「群発」という「一斉発信機能」を兼ね備えているので、デモやストのような「団体行動」を呼び掛ける時に効力を発揮する。二〇一〇年五月から六月にかけて、ホンダ系の自動車部品工場などで散発したストは、主としてこの携帯電話という手段が武器となって全国に広がっていったと考えていい。

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